芹野 創 牧師
ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。(マタイによる福音書2章23節)
"黙して従う信仰"と"聖書の歴史"
ヨセフはキリストの誕生をめぐるクリスマスの出来事の中しか登場しません。しかし聖書はヨセフの言葉を一言も記していません。ルカ福音書ではマリアの言葉が記されていますが、それとは対照的にヨセフは何も語りません。ここには"神のご計画に対してただ沈黙して従う以外に道はない"というヨセフの姿が描かれています。まさに"黙して従う信仰"がここにあります。
しかし神のご計画に対して"黙して従う信仰"が、この世で起こる様々な痛みや悲しみの出来事を解決するわけではありません。マタイ福音書は、ヨセフの"黙して従う信仰"を描きながらヘロデ王の残忍な殺略行為を記しています。「ヘロデは人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイ2:16)。この出来事を裏付ける歴史的な資料は確認されておらず、実際に起こったことかどうかは定かではありませんが、この記事はヘロデ王の"残忍さ"を象徴する出来事だと言えます。しかしマタイ福音書は力と恐怖によって人を支配するヘロデ王の姿を描きながら、この出来事を記すにあたって旧約聖書の出エジプトの出来事を重ね合わせています。
キリストは私たちと"同じ道"を辿られる
マタイ福音書が描くキリスト誕生の大きなストーリーは、"キリストがイスラエル歴史を体現している"というものです。ベツレヘムで生まれたキリストはエジプトに向かいますが、その一方で二歳以下の男の子が殺されました。それはまさにモーセがエジプトで誕生した時に起こった悲劇でもありました。「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。』」(出エジプト記1:22)。その後キリストはエジプトから戻り、成人した後、荒れ野で誘惑を受け人々の前に現れました。それはまさにイスラエルの民の出エジプトと40年にもわたる荒れ野の旅に重ねられています。マタイ福音書は、キリストがかつてのイスラエルの人々が辿った同じ道を歩まれたことを描き、来たるべき救い主のバックグラウンドを伝えています。そこにあるのは"キリストは私たちと同じように苦しみを道を辿られる"というメッセージです。
ヘブライ人への手紙の中で「試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブライ人への手紙2:18)と記されているように、キリストが私たちの痛みや苦しみを自分自身の体験としてよく知っておられるところに、深い慰めがあるのです。
"人間の悲劇"は神のご計画なのか…?
本日の旧約聖書の日課にはエレミヤ書31章15節以下が与えられています。この箇所はヘロデ王による残忍な殺略行為を捕捉するような形でマタイ福音書に引用されています。この箇所に出てくるラケルとは創世記の登場するヤコブの妻ですが、彼女は「死んで、エフラタ、すなわち今日のベツレヘムへ向かう道の傍らに葬られ」(創世記35:19)ました。そしてラマとは地名ですが、預言者エレミヤが捕虜してバビロンへ移送される途中で釈放された場所です(エレミヤ書40:1参照)。
そういう背景からこの箇所はヘロデ王の残忍な殺略行為を嘆いた歌ではなく、ラケルがバビロン捕囚によって自分の子孫であるイスラエルの民が背負う悲しみを嘆いた歌であると理解されています。しかしマタイ福音書ではこの言葉を引用しながら神のご計画が実現したことを描いているように見えます。
"人間の悲劇"と"神のご計画"
人間の命が無惨にも傷つけられ、失われていく出来事を"神のご計画"という言葉で簡単に語ることはできません。このような悲劇や戦争を"神のご計画"という言葉で語るところに人間の持つ危うさがあります。クリスマス物語においてマタイ福音書は度々旧約聖書の言葉を引用しています。2章の中では15節、17節、23節の3箇所で引用されいずれも"預言者を通して言われていたことが実現する"という表現が使われています。しかし17節から18節にかけて引用されているエレミヤ書の言葉だけは少し違う表現となっています。15節と23節では「預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と記されていますが、17節は「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」となっています。つまりこの部分だけ"ためである"という言葉は使われていません。
マタイ福音書では、人間の罪の結果起こる悲劇や悲しみの出来事と、神のご計画の内に実現する出来事を明確に区別しています。具体的には"ためである"という表現を使っているかどうかということです。人間の不信仰と罪に対する嘆きこそ聖書が指摘していることなのです。この世では悲劇の現実が繰り返されています。憎しみの連鎖と争いが今も続いています。多くの血が流され戦争は終わりが見えません。この世の指導者が考え、計画していく事柄だけを見つめていくのであれば、そこに信仰は必要ないでしょう。しかし私たちの信仰は、人間の行いと繰り返される悲劇に対して怒り、悲しむと共に神がキリストの十字架と復活において最後に勝利されることを信じることなのです。それは残虐な行為に対して、それを上回るような残虐行為で報復することではありません。平和の主イエス・キリストが平和とは決して言い難いこの世の現実の中で、十字架にかけられ復活された事実によって"人間の考えと計画をはるかに超えたものがある"という確信を諦めないということです。
もとの姿は変わらざりけり
今年の初夢はどんな夢をご覧になったでしょうか。"一富士二鷹三茄子"というように、最も縁起の良い初夢は富士山の夢だと言われます。かつて幕末において江戸城無血開城の影の立役者とも言われる山岡鉄舟が詠んだ富士の山の歌があります。"晴れてよし/曇りてもよし/富士の山/もとの姿は変わらざりけり"という歌です。人生には晴れの日もあれば曇りの日もあります。時には雨や嵐の日もあるでしょう。晴れの日には霊峰富士と称賛される富士山ですが、雨や嵐でその姿形も見えない山を称賛することはほとんどありません。しかし山岡鉄舟は富士山の姿を"もとの姿は変わらざりけ"と詠みました。富士山は周囲の天候や状況、また人の評価によって変わるのではなく、依然としてそこに存在しているというのです。当たり前のことを詠んだ歌ではありますが"もとの姿は変わらざりけり"という出来事を人生の中で体現しようと思うとなかなか難しいことではないかと思わされます。
信仰は自分の中に富士山のような存在を置くことに似ています。晴れの日も、曇りの日も雨の日も、そして闇に閉ざされた悲しみの日々も、変わることなく存在する神の恵みこそキリストの十字架と復活なのです。その恵みが私たちの側からはよく見えないことがあるかもしれません。しかし私たちの側から見えづらいだけであって、キリストの十字架と復活という神の恵みがなくなってしまったわけではないのです。"晴れてよし/曇りてもよし/死と復活/もとの姿は変わらざりけり"。
神は確かに働かれる
この世界の極めて深刻な課題について、人間の側からは答えが出ないものもたくさんあります。しかし私たちに解決不能な時、聖書はたった一つの答えを示しています。それはヨセフがそうであったように"黙して従う信仰"に立ち帰ることです。しかしそれは平穏無事な人生とは違います。ヨセフは命の危機にさらされ子どもと妻を連れた亡命生活を余儀なくされました。そこには先の見えない不安がいつもあったに違いありません。それは聖書が記すように「いつもイエスの死を体にまとっている」(コリントの信徒への手紙二4:10)姿なのです。しかし同時にそれは「イエスの命がこの体に現れるために」(コリントの信徒への手紙二4:10)にほかなりません。ここにも"ために"が出てきます。神のご計画は必ず"ためである"という目的があります。ヨセフは黙って従っているだけのように見えますが"黙して従う信仰"は、神のご計画を信じて生きるための大きな戦いです。神が働いて聖書の御言葉が実現していくことを忘れてはなりません。神が大きな目的と意志を持って確かに働かれるからこそ、私たちは闇の中にいるように思えても"黙して従う"道を選ぶのです。
祈り
主なる神さま、この朝もあなたの御言葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。主の年2025年を迎えました。今年最初の主日礼拝を守ることができますことを感謝いたします。新しい一年の歩みが始まります。私たち一人ひとりの命と生活と信仰をお守りください。日々の歩みの中で晴れの日も、雨の日もあなたの恵みが"もとの姿は変わらない"という思いを忘れずに過ごすことができますようにお支えください。
この世では悲劇の現実が繰り返されています。憎しみの連鎖と争いが今も続いています。しかし私たちは、人間の行いと繰り返される悲劇に対して怒り、悲しむと共に神がキリストの十字架と復活において最後に勝利されることを信じます。
新しい週もそれぞれの信仰と日々の生活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす方々がいます。それぞれにあなたの恵みを心に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。