神に仕える心

芹野 創 牧師

 

そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。 (マタイによる福音書3章17節)

 

大切なことは検索では出てこない!?

 

「大切なものは...」と言えば、その後にどんなフレーズを思い浮かべるでしょうか。サン=テグジュペリの小説『星の王子さま』に出てくる「大切なものは目に見えない」は有名なフレーズだと思います。皆さんだったらどんなフレーズを当てはめるでしょうか。

 

先週の半ばから教会と幼稚園のインターネット環境が不具合を起こしています。プロバイダーとネット回線の接続が不具合を起こしたために、全くインターネットが使えない状態になってしまったのです。今週半ばに復旧の見込みですが、ここ数日の間に痛感させられたことは「いかに日々の生活でインターネットに依存した生活をしているか」ということでした。私たちの日々の生活を考えてみたときに「本当に大切なことは検索では出てこない」というフレーズが思い浮かびます。もちろんインターネットの役割は検索だけではありませんが、ちょっと何かを調べる際に何気なく検索する癖が私たちの日常生活に染みついているように思います。

スマホ片手に生きている私たち

 

『スマホ片手に文学入門 検索で広がる解釈の楽しみ方』(笠間書院)という本が出版されています。中高生を読者に想定した語り口調で、「読書離れ」が叫ばれるようになったことを逆手にとったようなインパクトのあるタイトルです。「スマホ片手に」最も多様されているのは語句の検索だと言われています。意味のわからない言葉や表現、読めない漢字など、普段使わない言葉に出会う時に私たちは「スマホ片手に」検索をして瞬時に必要な情報を手にしていきます。

 

先週からNHKの大河ドラマ『べらぼう』が始まりましたが、冒頭の場面で江戸時代中期の遊郭吉原を説明するシーンでスマホが登場しました。大河ドラマにスマホという異色の組み合わせで、浅草からの吉原までのルート検索をして江戸の町との距離感をイメージさせる演出でした。それほどまでに「スマホ片手に」検索という姿は私たちの日常生活に溶け込んでいます。しかし検索によって得た情報をどのように判断していくのかという作業はその人次第です。そしてここからが本題ですが、これほどまでに「スマホ片手に」生きる時代の中で「私の人生において本当に大切なことは検索では出てこない」からこそ、私たちは「私という存在」を本当によく知っておられる方にこそ心を向けていたいものです。

 

私たちの一人となってくださるキリスト

 

聖書は神の御子キリストが民衆に混じって「罪の赦しと悔い改めのしるし」である洗礼を受けるために洗礼者ヨハネのもとにやって来たと語っています。人々の中に混じり、私たちの一人となってくださる神がいることに気付かされます。私のそばで、私の苦しみや悲しみ、怒り、また喜びや幸せを誰よりも知っていてくださるキリストがいるというメッセージです。このメッセージはキリストの十字架のエッセンスです。「私という存在を本当によく知っている」と言うときに、おそらく一番心に響くのは「私の苦しみや悲しみ、怒りをよく知っている」ということではないかと思います。もちろん喜びや幸せを知っていてくれることは嬉しいことですが、私の苦しみや悲しみ、怒りはどちらかと言えばネガティブな事柄で、誰にでも親しく打ち明けることのできるものではありません。内容によっては一人で苦しみながら抱え込んでしまうということも起こるのです。

 

詩篇の中にこんな言葉が記されています。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる」(詩篇139:1-4)。また「わが心は定かならず、吹く風のごとく絶えず変わる。主よ、御手もて引かせたまえ。さらば直き道、踏み行くを得ん」と歌う讃美歌があります。「直き道、踏み行くを得ん」と言うからには、「今自分が歩んでいる人生の道はどうも正しい道ではないと思う。本当に自分が歩むべき道ではないと思う」という気持ちがどこかにあるということです。神は、私たちの心が確信や決心を保つことができなくて、コロコロと気持ちが変化するような心であることをよく知っていてくださるというのです。

 

揺れ動く人の心

 

 旧約聖書で描かれる預言者サムエルも私たちと同じように心の中で様々なことを考え、悲しんだり、悩んだりしながら信仰を持って生き抜きました。今日の箇所には預言者サムエルがサウル王に代わる新しい王となる少年ダビデに油を注ぐ出来事が記されています。目に見える出来事としてはサムエルが少年ダビデに油を注ぐという一連の様子が描かれていますが、聖書はその背後にあるサムエルの心の様子も記しています。サウル王のことで嘆き悲しむサムエル(サムエル記上16:1)、自分の身の危険を恐れ戸惑うサムエル(サムエル記上16:2)、人を見た目で判断してしまうサムエル(サムエル記上16:6)がいます。どれも私たち自身の姿ですが、神はそんな私たちの心をよく知っておられるのです。

 

批評家の若松英輔さんの著書に『イエス伝』という本があります。若松さんはその中で「私のイエスは『教会』には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄り添っている。福音書に描かれているイエスは、神殿で人々を待ったのではない。彼の方から人々のいるところへ出向いていくのである」と記しています。「教会に行くことをためらう人」のそばにこそキリストは共におられるというのです。教会に行くことをためらう理由は様々でしょう。言葉で明確に説明できることばかりではありません。身体的な理由やスケジュールの都合ではなく、教会に行けなくなってしまう時、そこには様々な心の葛藤があってうまく言葉で表現できることばかりではありません。このような信仰生活の現実の中で、私たちは私たちの心をよく知っていてくださるキリストと出会うのです。

 

何に仕え、支配されるのか?

 

 ローマの信徒への手紙も本日の聖書日課の一つとして与えられています。そこでは私たちの心のあり方が人生の様々な選択に深く関わっているということが示されています。大切なことですからもう一度繰り返しますが、私たちの心のあり方が私たちの人生の様々な選択に深く関わっているというのです。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです」(ローマ6:16)。人は皆、何に仕えるかによって人生が変わるということです。

 

「仕える」ということは「支配される」ということでもあります。私たちは何に支え支配される生き方を選ぶのでしょうか。罪、悪事、欲望に仕える奴隷となるか、それとも神に仕える奴隷となって生きるかです。「奴隷」という表現からも想像できるようにどちらに仕えたとしても苦役があるのです。神に仕えることが楽だとは言っていません。むしろ罪、悪事、欲望に支え支配される生き方の方が楽なのです。しかしその行き着く先に本当に希望や喜び、幸せが待っているのでしょうか。

 

 私の人生において本当に大切なことは検索では出てこないからこそ、私たちは「私という存在」を本当によく知っておられる方に、「私の苦しみや悲しみ、怒り」をよく知っておられる方にこそ心を向けたいものです。決して楽ではないかもしれませんが、私たちの心が「神に仕える心」となるように祈りたいと思います。

 

祈り

 

主なる神さま、この朝もあなたの御言葉を分かち合うことができましたことを感謝いたします。私のそばで、私の苦しみや悲しみ、怒り、また喜びや幸せを誰よりも知っていてくださるキリストがいるというメッセージを分かち合いました。私たちの心は確信や決心を保つことができなくて、コロコロと気持ちが変化するような心です。しかしそのような私たちを突き離さず「神に仕える心」となるように背中を押してくださることを感謝します。「神に仕える心」を抱いて生きることは決して楽ではありません。しかしそれでも「神に仕える心」を抱いて生きることができるように助けてください。

 

新しい週もそれぞれの信仰と日々の生活、健康を守ってください。また様々な事情の中で礼拝を覚えつつも参加することができずに、祈りをもって過ごす方々がいます。それぞれにあなたの恵みを心に留め、感謝のうちに新しい週を歩むことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。