神の置かれる障壁

芹野 創 牧師

わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える。わたしは主である。(出エジプト記6章8節)

 

出エジプト記6章には、苦しみの中にいるイスラエルの人々に向けて、神が「救いの約束」を新たに語る場面が描かれている。神は「エジプト人の奴隷となっているイスラエルの人々のうめき声を聞き、契約を思い起こした」(出エジプト6:5)というのである。しかしそのうめき声は空を打つように虚しいものであった。人々は厳しい重労働のために希望や生きる意欲を失って、神が語る「救いの約束」をもう聞くことすらできなくなっていたというのである。目の前の現実が大きく立ちはだかる時に、私たちの希望が一瞬にしてかき消されてしまうような場面に出会うことがある。重労働や貧困、飢餓、戦争という現実があまりにも大きい時に、人は希望や生きる意欲を失ってしまうのである。

 

しかし大切なことは、私たちの側が神の語る「救いの約束」を聞くことができなくなってしまう時でも、心に希望を持ち、生きる意欲を失ってしまうような時でも、神はいつでも私たちのうめき声を確かに聞いていてくださるということである。神は私たちのうめき声に応え、「救いの約束」を果たすために不思議な道を備えられるのである。「あなたたちは、わたしが神であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る」(出エジプト6:7)という「救いの約束」は、どういうプロセスを経て実現したのだろうか。私たちの目には大変不思議に見えるのだが、神は「救いの約束」の実現のために、何個もの障壁を私たちの前に置かれるのである。

 

イスラエルの人々が重労働から解放されて、エジプトの国を脱出するまでの過程には何個もの障壁があった。人々を導き出すことになるモーセとアロンは何度もエジプトの王ファラオの前に出て、重労働からの解放を願う交渉を繰り返していた。モーセとアロンは「疫病の災い」や「いなごの災い」、「暗闇の災い」など、様々な災いがエジプトの国を襲うことを告げ、それらの災いを交渉の手段として持ちかけたのである。しかしファラオとの交渉は難航し、イスラエルの人々はかえって重労働に従事させられることになってしまうのである。聖書はファラオの心情について、「ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった」と語っている。この繰り返される交渉の中で、神が語る「救いの約束」はどんどん遠のいていくように感じられたのである。

 

その出来事は、十字架を背負っていくキリストの姿と同じである。「神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」(マタイ27:43)という言葉と共に、絶望の極みへと向かっていく十字架のキリストの姿と同じである。しかし聖書はそこに復活を証しするのである。私たちの前に置かれる障壁は、神が語る「救いの約束」の実現を阻むために置かれているのではない。その障壁があるからこそ、私たちはつまずき、立ち止まり、悩み、祈り、信仰を見つめ直すことを強いられるのである。障壁が私の魂を打ち砕くことがある。障壁が私の希望を覆い隠すことがある。障壁によって、神が語る「救いの約束」がどんどんと遠のいていくように感じられることがある。そういう時に、私たちは自分自身が大切にされていないという思いに駆られ、人に対して優しさや思いやりが至らず、自分優先でしか生きることができなくなってしまうのである。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩篇51:19)。

 

ファラオにとっても、「イスラエルの民を解放してほしい」という申し出は、自らの治世に大きな影響を与える障壁であった。私たちの前に置かれる障壁は、自分優先の私利私欲に立ち止まる機会を与えてくれるか、あるいはかえって自分優先の私利私欲を頑なにしていくかのどちらかである。

 

子どもたちが砂場でサラサラの砂を作り出す過程が興味深い。サラサラの砂を作り出すために、砂場の砂を何度も網の目の「ふるい」にかけていくのである。その作業は一回では終わらない。「ふるい」の中には網の目を抜けることができなかった小石が残る。その小石を捨てて、再び「ふるい」にかけられた砂を「ふるい」にかけるとまた小石が残るのである。そんな作業を何度も繰り返していくと、やがてサラサラの砂が出来上がるのである。このサラサラの砂を作り出すための「ふるい」こそが、神の置かれる障壁なのである。障壁は一つ出ないからこそ厄介である。しかし障壁が一つでないからこそ、私たちは何度もつまずき、立ち止まり、悩み、祈り、信仰を見つめ直すことを強いられるのである。

 

私たちのうめき声は、神の置かれる障壁の前で何度も「ふるい」にかけられる。小石が網の目をくぐり抜けることができないように、私たちのうめき声も「ふるい」にかけられ、洗練されていく。うめき声は私たちの感情の発露であるが、感情は言葉になることを求めてくる。私たちは感情を何とか言葉にすることを願っている。そしてうめき声はやがて言葉になる。言葉を持つとき、私たちの苦しみ、悲しみ、怒り、失意がやがて祈りを生む。そして祈りは、なかなか答えの返ってこない「ふるい」にかけられながら、さらに小石をふるい落とし、形を変えていく。祈りは、神の語る「救いの約束」に欠かすことのできない鍵になる。私たちは「祈り」という信仰の鍵を握って、目の前に置かれる障壁の扉を開いていくのである。「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であり、あなたたちをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る」(出エジプト6:7)。

 

祈り

 

主なる神さま、あなたの御名を賛美します。あなたは私たちのうめき声を確かに聞きつつ、しかし人生の道に何個もの障壁を置かれます。その度に私たちは立ち止まり、悩み、祈ります。人生の障壁が私たちの信仰を育むことを心に留めることができますように。あなたが私たちの神、主であることを心に留めることができますように。主イエス・キリストの名によって祈ります。