芹野 創 牧師
イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。(ヨハネによる福音書20章16節)
マリアは墓の外で立ち尽くし、深い悲しみに打ちひしがれていました。どうしたらいいのか分からず、途方に暮れていたのです。そもそも日曜日の朝早くにキリストの墓に向かったのは、墓に納められたキリストの遺体に香料を塗るためでした。キリストが十字架につけられたのが金曜日の午後で、その翌日は「安息日」といって、ユダヤ教の教えでは「どんな仕事もしてはならない日」とされています。そういうこともあって、金曜日の夕方に急いでキリストの遺体を十字架から降ろして、墓に納めたのでした。そしてマリアは「安息日」が終わる日曜日の朝を待って、朝早くに墓に向かいました。墓に着いたらキリストの遺体に香料を塗って、生前のキリストに思いを馳せて心静かな時を過ごしたいと思っていたのではないかと思います。
しかし墓に着いてみると、墓の入り口を塞いていたはずの石が取り除けられていました。この時、マリアは墓の中を確認することもできずに、その状況をすぐに弟子のペトロに知らせました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」。その後、墓に戻ってからも、マリアはやはり墓の中に入ることができず、墓の外で立ち尽くして泣いていました。この時の悲しみは、キリストが十字架にかけられ殺されてしまった時の悲しみよりも、深い悲しみだったのではないかと思います。
マリアは十字架の死を見届けましたが、それでも「やるべきこと」がはっきりと分かっていました。翌日は安息日だから何もできません。この時、マリアにできることは香料を準備し、日曜日の朝早くに墓に行って、キリストの遺体に香料を塗り、キリストを偲ぶことでした。しかし、今、「やるべきこと」が分からないのです。「主が墓から取り去られました。」。辛くても、悲しくても「やるべきこと」がはっきりしていれば、何とかそれをこなしていこうとするものです。「どうしたらいいか分からない」、「何をしたらいいか分からない」という時の悲しみは計り知れません。しかしそこにキリストの復活の出来事が訪れました。何が起こったのでしょうか。
マリアは悲しみの涙で、目がかすんで復活の主の出来事を知ることができませんでした。マリアは心からキリストを愛し、慕って、多くの弟子たちが十字架の前から逃げ出す中でも、最後までキリストのもとに留まりました。しかし人間の親しい愛情があっても、復活の主を見る力にはなりませんでした。復活の主は言葉によって、ご自身を示されます。しかもそれは、私たちの個人の名前を呼ぶ言葉です。復活の主は、私たちの名前を呼び、私たちに永遠の命という、尽きない希望を与えられます。それは具体的な私たちの日常生活に関係しています。マリアは復活の主から名前を呼んでもらったのです。
誰かから名前を呼んでもらうことには、大きな力があると思います。幼稚園のお誕生日会で、年長ゆり組の子どもがお誕生日を迎える時には、その子どもの名前の由来をお家の方に短くお話ししてもらっています。子どもたちはお家の方から、お誕生日を迎える友達の名前の由来を聞きます。名前の由来の意味が十分に理解できるかどうかはあまり問題ではありません。その時、大切なことはお家の方のお話しを聞きながら、「お名前は大切だね」というメッセージを頭ではなく、心で感じていくということです。そして子どもたちは自分にも名前があって、その名前にも由来があって、ということを知るようになるのです。
ユダヤ人の強制収容所の体験を綴った『夜と霧』の著者である、ビクトール・エミール・フランクルという人は、本の中で、人間が名前を剥奪され、番号で管理され、番号で呼ばれる存在になった時、人間の尊厳が奪われていった出来事を記しています。強制収容所ではもはや名前に意味はありませんでした。管理こそが大事であり、それは番号で十分であり、その方が便利なのです。しかしそういうことが起こるのは戦時下だけとは限りません。役職でもなく、肩書きでもなく、あなたのことを名前で呼んでくれる人がいるでしょうか。
名前を呼んでもらうことには大きな力があります。名前を呼んで語りかけること、名前を呼ばれて語りかけてもらうことは、人間が生きる上での励まし、慰め、喜びと安心の土台です。名前には「あなたが大切です」というメッセージが込められています。
「どうしたらいいか分からない」、「何をしたらいいか分からない」中で、マリアはただキリストの墓の前で立ち尽くして泣いていました。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。名前を呼ばれるまで、キリストとの会話ですらも、機械的なものでしかありませんでした。そこで復活のキリストは「マリア」と彼女の名前を呼びました。キリストはただ「マリア」と彼女の名前を呼んだのです。名前を呼んで語りかけてもらうことは、その後に続く、どんな励ましや慰めの言葉よりも力であるのです。復活の主は、ただ一言「マリア」と名前を呼びました。しかしそれが悲しみの涙を拭うだけではなく、マリアに新しく生きる力を与えました。私たちもまた、復活のキリストからひとりひとり名前を呼んでもらうのです。
祈り
主なる神さま、あなたの御名を賛美します。イースターの朝を迎えました。復活の主は私たちの名前を呼んでくださいます。マリアは悲しみの涙で、目がかすんで復活の主の出来事を知ることができませんでした。それは私たちも同じです。しかしキリストは名前を呼んで、復活の主がいることを示してくださいます。私たちもまた、復活のキリストからひとりひとり名前を呼ばれ、新しく生きる力をいただきたいと願っています。どうか私たちひとりひとりに、新しい命をお与えください。復活の主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。