しばらくの信仰

芹野 創 牧師

 

イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。(ヨハネによる福音書16章19節)

 

人生には悲しみと喜びがあります。もちろん、どちらとも言えない中立的な事柄もたくさんありますが、私たちの記憶や経験の中で、何か決定的に大きな出来事というのは、だいたい悲しみか喜びのどちらかになるのではないかと思います。「人間万事、塞翁が馬、人生の禍福は、あざなえる縄のごとし」という言葉は、あまり使わない表現ですが、昔からある人生教訓として、人生というのは縄のように悲しみと喜びが交互にやってくるようなものだと言われます。縄のように交互にやってくるものだと言われれば、確かにそんな気がして、今、悲しいことがあっても、この次にはきっと良いことがやってくるだろうと考えるものです。

 

しかし聖書が教える人生の悲しみと喜びは少し違っています。一体何が違うのかと言うと、悲しみと喜びが交互に「やってくる」のではなく、悲しみと喜びが「しばらくすると」という時間的なつながりで「続いている」ということです。悲しみも喜びも「やってくるもの」ではなく、むしろ「つながっているもの」だというのです。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」(ヨハネ16:16)、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)。ここには「しばらくの信仰」があります。「しばらくの信仰」とは言い換えると「今すぐにではない信仰」です。

 

私たちは自分の祈りが本当に聞かれているのだろうかと思うことがあります。これだけ一生懸命に祈っているのに、神様は本当にこの祈りを聞いていてくださるのだろうか、という不安や焦りがあります。「今すぐには答えが示されない」時に、私たちは不安になるのです。しかし聖書は「しばらくすると」という「しばらくの信仰」を教えています。

 

私たちは「しばらくの信仰」を持ち続けていたいものです。そのためには「しばらくの信仰」の最大の強みを忘れず、事あるごとに思い返すことができるようにしておきたいのです。では「しばらくの信仰」の最大の強さとは何でしょうか。それは「悪魔は時間を支配することができない」ということです。耐え難い悲しみや苦しみをもたらす悪魔的な力の前に私たちは圧倒され、絶望を味わいます。しかし「悪魔は時間を支配することができない」なのです。

 

私たちを悲しみに突き落とし、苦しみと悩みで心を満たさせるような力があります。まさにこのような悪魔の力は避けることができません。キリストにも裏切りの時、悲しみの時、十字架の時、苦難の時があるように、私たちにも必ず苦難の時が訪れます。そのような時を避けることはできません。神様のお守りとお導きがどこにあるのだろうかと思いたくなるほど、そして神様の力ではなく、まるで悪魔の力が働いているのではないかと思いたくなるほどに、苦しみ、悩み、悲しみに振り回されることが起こるのです。聖書は私たちの人生に、そのような時が訪れるということを否定しません。しかし悪魔の力には一つだけ「制限がある」ということを教えるのです。私たちを悲しみに突き落とし、苦しみと悩みで心を満たさせ、耐え難い苦難をもたらす悪魔の力は「時間だけは支配できない」のです。

 

聖書には「荒れ野の40年」とか、「荒れ野の誘惑の40日」というお話しが出てきます。このほかにも聖書には40という数字がいろんな場面で出てきますが、その多くは困難な状況を象徴するものです。ではどうして40年とか40日というように具体的な日数が記されているのでしょうか。それは苦難の時を避けることはできないけれども、私たちをひどく苦しめる悪魔的な力には時間が支配できないからです。そこには40年とか40日というような「制限」がかけられています。時間だけは神様の御手の中にあるのです。「時間を支配することができない」。これが悪魔の最大の弱点であり、「しばらくの信仰」の最大の強さなのです。

 

ユダヤ人強制収容所での体験を綴った、フランクルの『夜と霧』という日本語の表題が、まさにこの悪魔的な力の本当の姿をよく表していると感じます。『夜と霧』は日本語のタイトルで、オリジナルには存在しないタイトルです。オリジナルのタイトルは「ある心理学者の強制収容所体験」なのです。では一体どうして「夜と霧」というタイトルがつけられるようになったのでしょうか。そこにはこんな経緯があるそうです。そもそも「夜と霧」という言葉そのものは、1941年に始まったヒトラーの特別命令に由来しているという話があるそうです。この年、ヒトラーは非ドイツ国民で、ナチ党と国家に対して反逆の疑いのある者は、家族丸ごと捕縛して収容所に監禁せよという命令を出します。この命令は、夜、霧に紛れて秘密裏に実行され、ユダヤ人の一家が一夜にして神隠しのように消え失せるという事件が各地で起こりました。そういうことで、この特別命令を通称して「夜と霧」命令と呼ばれたといいます。

 

私たちの人生に悪魔的な力が大きく働く時も同じです。イエス・キリストは別の箇所で「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」(ヨハネ12:35―36)ということも言っています。

 

私たちの人生に「夜」が訪れることも「霧」が立ち込めることも起こります。そしてそういう「夜と霧」の中で、私たちを耐え難い苦難に陥れる悪魔的な力が最も強く働くのです。

 

しかし時間だけはただ主なる神様の御手の中にあるのです。キリストも十字架という苦難は避けることができません。悪魔は、神の子であるキリストをすら死に至らせる力を持っています。耐え難い苦しみをもたらす大きな力を持っています。しかし悪魔は「復活の時が訪れることを拒むことができない」のです。悪魔がどれほど大きな苦難をもたらす力を持っていても、時間だけは支配できないのです。これが「しばらくの信仰」の最大の強さです。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。神はすべてを時宜にかなうように造られた」(コヘレト3:11)。

 

祈り

 

主なる神さま、あなたの御名を賛美します。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる」。私たちの人生には、いつも悲しみや喜びがあります。キリストは「悲しみがしばらくすると喜びに変わる」と教えられました。悲しみの時、悩みの時、苦しみの時を避けることはできませんが、私たちを耐え難い苦難に陥れる悪魔的な力は「時間を支配することができない」ということを知りました。時間だけはだたあなたの御手の中にあることを知りました。悲しみも喜びも、全てがあなたの御手の中にあることを信じて歩むことができますように、力づけてください。主イエス・キリストの名によって祈ります。アーメン。