キリストの言葉


2024/06/02 芹野 創 牧師

 

ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。(ローマの信徒への手紙10章12節〜13節)

 

神を信じるとはどういうことなのか。どのようにして神を信じればよいのだろうか。本日与えられたローマの信徒への手紙では、この漠然とした問いに対する一つの答えが示されている(ローマ10:11-13)。私たちに必要なのは言葉である。それはたとえ返答がなくても「神を求め続ける言葉」である。それは聖書の御言葉である。

人間国宝の染織家である志村ふくみさん、娘の洋子さん、孫の晶司さんの親子三代による染織ものへの思いを綴った『夢もまた青し』という本が出版されている。志村家の染織は植物染料を使う「草木染め」と言われる手法である。その技を伝えるために志村家は「アルスシムラ」という学校を開いた。同書ではそこで学ぶ生徒たちのエピソードが綴られている。「機織り」のエピソードが興味深い。「機織り」ではまず経糸(たていと)を計画通りに張り、後は緯糸(よこいと)を入れながら織っていく。しかしその緯糸(よこいと)を入れる時に失敗をしてしまうことがある。しかし講師は「なんで間違えたんだ」とは言わず意気消沈する生徒に向かって「いいのよ、いいのよ」と声をかけるのだという。

 

 「神の掟」を忠実に守ることが神を信じることであり、それ以外の方法で神を信じる事はあり得ないというなら、それは神が与えて下さった経糸(たていと)の世界の中を、「神の掟」という緯糸(よこいと)で忠実に織り込んでいく生き方に似ている。しかし人は間違いを犯すことがある。間違えようと思って間違えるのではなく、「間違えてしまった」という形で悔いることがある。過ぎた時間は戻らないし、織り込んだ糸をほどいて最初からやり直すわけにはいかないのである。途中で失敗してもそのまま人生の続きを生きていくしかない。その時「いいのよ、いいのよ」という声がある。それは私の後悔と過ぎた過去と傷ついた心を知り、私のために苦難の十字架を背負い、私が新しいスタートに立つために復活されたキリストの声である。

 

 旧約聖書の時代では「神の掟を守ること」が神を信じることであった(申命記6:17以下)。しかし与えられた「掟」を忠実に守るには限界がある。「神を求め続ける言葉」を身近に感じ、神を呼び求め続けることができるように、私たちは「キリストの言葉」を聞くのである。なぜならキリストの十字架と復活を重ね合わせていくうちに、何の返答もないと思っていた言葉が、新しい意味を持った「命の言葉」に姿を変えていくからである。