教会に連なる喜び

芹野 創牧師

 

祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。(使徒言行録4章31節)

 

 キリスト者が教会に集い、連なり、覚えられ、祈られる幸せとは何だろうか。それは人生の苦悩と混乱、不安に対して「教会が語る福音の力」を心に留めることである。預言者アザルヤは人々が苦悩の中で神を求めることに先立って、実は「神が苦悩をもって混乱させられた」ことを告げる(歴代下15:6)。そして苦悩して神を求めることに対する報いを語る(歴代下15:7)。神は自らが苦悩して混乱をもたらすことを通して、苦悩の中にこそ神が共にいるということを示された。苦悩のあるところに、神が十字架を背負って共にいるのである。聖書は苦悩の中で大胆に神の言葉を語る信仰者の姿を描く。

 

 使徒言行録においてペトロとヨハネは、キリストの御名による言動の故に脅され、キリストの御名によって語ってはならない(使徒4:18参照)との命を受けた。本日の箇所では「大胆に」という言葉が3回出てくる(使徒4:13,4:29,4:31)。彼らは苦難の中でも「大胆に」神の言葉を語り続けることを選んだ。しかし苦難の中で「大胆に」希望や生きる意味を支えてくれる神の言葉を語ることは難しい。だからこそ苦難の中でも「大胆に」神の言葉を語るような憧れが、人の心をとらえ物語を生み出すことがある。チェコスロバキア出身の作家ミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』には、そのような「憧れ」を感じる。主人公トマーシュは、その時代の政治情勢の中で翻弄されていく。その時代とは旧ソビエト軍を中心としたワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキアの占領である。

 

 現実世界においてクンデラは、その政治情勢の中フランスに亡命した後、そこに留まりながら小説を発表したが、小説の主人公トマーシュは、自らの意志で亡命先のスイスからプラハに帰国する。作家クンデラは「私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である」と書いている。厳しい現実と命の選択が迫られる中で「叶えられなかった他の可能性を生きてみる」という憧れをクンデラは小説に投影したのではないだろうか。

 

 

 苦難の中で「大胆に」希望や生きる意味を支える神の言葉を語ることは難しい。しかし私たちは「大胆に」神の言葉を語る力強さを、憧れではなく人生の確かな出来事として受け止めたい。教会は苦悩の中だからこそ「大胆に」神の言葉を語る。なぜなら苦悩の中に十字架を背負い共に苦しみを担う神がいることを知っているからである。神の言葉が苦悩の中で輝きを失わず「大胆に」語られるが故に、私たちは癒され、励まされ、慰められる。