神の約束を信じて

芹野 創 牧師

 

神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった(ヘブライ人への手紙11章40節

 

ヘブライ人への手紙で記される信仰とは「苦しみの中でも希望に生きる信仰」と言えるだろう。ヘブライ人への手紙ではそのことを示すために旧約聖書の信仰者の姿を描いていく。そして「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」(ヘブライ11:40)と締め括る。苦しみの中で希望となるのは、神が私たちのために「約束してくださっているもの」があるということである。その一つが私たちの「回復と再生」である。

 

士師記は出エジプトを導いたモーセの後継者ヨシュアの死後(ヨシュア記)に続く物語である。ここでは「士師」と呼ばれる人物を通して与えられた救いの出来事が記されている。士師記では、神への背信、苦難、悔い改めを経て回復、そして再び背信というサイクルが繰り返される。それはまさに「回復と再生」のサイクルでもある。ギデオンの物語の中では「回復と再生」に至る道のりに「心のおごり」があることを告げている。「イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」(士師7:2)

 

『さらば学力神話 ぼうず校長のシン教育改革』という本がある。「教育改革のキラキラとした横文字」を発信するだけで、具体策を「現場に丸投げして役割を終えている」教育行政や、「現場を知らない人の幻想」にすぎない「乾いた言葉」でものを言う評論家への視線は厳しい。しかしその厳しさが人間の「心のおごり」のストッパーでもあるように思う。

 

自分の力と努力で何かを成し遂げ、人生の全てにおいて神という存在を忘れ自己を絶対化する姿も「心のおごり」かもしれないが、一方で神頼みのように神に全てを丸投げし、向き合うべき課題に背を向け、何かに責任転嫁をしていく姿もまた「心のおごり」ではないかと思わされる。私たちの人生における「回復と再生」の歩みは私たち自身と神との共なる歩みの中で生まれるのである。

 

大切なことは「回復と再生」という神の約束は私たちの人生において「まだ終わっていない」ということである。聖書は「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)と語っている。私たちに信仰を与えてくださる神は、またそれを完成させてくださる神である。キリストは私たちの出発点にも終着点にも、そして「回復と再生」の途上にも共にいてくださるのである。このときキリストの十字架と復活が、私たちの人生の「回復と再生」を豊かに象徴する出来事であることを覚えたい。