命を選ぶために

芹野 創 牧師

律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう(ローマ人への手紙7章7節

 

「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう」(ローマ7:7)。律法とは道徳的な規範を示す以上に「命をもたらす掟であり、聖なるものであり、正しく、善いもの」という信仰が根底にある。しかし「命をもたらすはずの掟」によって明らかにされたことは、誰かに罪や責任を転嫁し、非難されることを避けようとする人間の邪悪さである。

 

創世記には「善悪の知識の木」をめぐる人間と蛇の対話と、「善悪の知識」を手に入れた人間の姿が描かれている。聖書は蛇の存在を「最も賢い存在」と記す。蛇の「賢さ」とは自己中心と損得勘定に基づく「賢さ」であり、自分にとって不利になる事柄を残さないところにある。蛇は一言も「木の実を取って食べよ」とは言っていない。皮肉にも、自分にとって不利になる事柄を残さない「賢さ」を求めた人間が手にしたのは、自分にとって不利な事柄を「誰かになすりつける」ことであった(創世記3:12-13)。人は誰かに罪や責任を転嫁してしまう存在である。その最も顕著な出来事がキリストの十字架である。自分にとって不利な事柄を「誰かになすりつける」中でキリストは十字架へつけられた。

 

「命をもたらすはずの掟」もまた、自分にとって不利な事柄を「誰かになすりつける」人間の邪悪さの中で姿形を変えていくということが起こる。『ことばの生まれる景色』という本の「あとがき」には、この本の挿絵を描かれたnakabanさんという方の文章が寄せられている。「言葉を絵に翻訳したとたん、あやまちが起こる。僕が言葉に沿う絵をなかなか描けないとき、そこには言葉に含まれた映像の聖域性を前にしての躊躇いがある」。

 

スイスの画家パウル・クレーの著書『造形思考』には印象深い言葉がある。「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることにある」。これは芸術について語られた言葉だが信仰も同じである。人間が自らの手の中で、意図せずとも何かを変えてしまう存在だからこそ「見えるものをそのまま再現する」ではなく、本来あるべきもの想像し、改めて「見えるようにすること」が信仰生活には欠かせない。

 

私たちの生き方を決める分岐点は「掟」ではなく「何を選び、何を選ばないか」である。「わたしは生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選びなさい」(申命記30:19-20)という言葉がある。それは「死や呪いを選ばない」ということである。キリストの十字架は「あなたが命を選ぶことができるようにわたしが死を選ぶのだ」と告げている。