キリストを通して

芹野 創 牧師

わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい(ヘブライ人への手紙3章1節)

 

モーセの出自をめぐる出エジプト記の冒頭では、ナイル川に流され一度は捨て子となったモーセが、エジプトの王女に拾われモーセの姉の言葉によって再び実の母のもとで育てられる物語が記される(出エジプト2:1-10)。父と母の手から離れた命が再び両親の元に戻ってくるという物語を通して、私たちは「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(コリント一3:6-7)との御言葉を思い返すことができる。父と母の手から離れたという出来事は、その子の「命と人生を全て神に委ねる」という生き方を示していると言えるだろう。「人は家をつくるが神は人をつくる」のである。

第226代ローマ教皇であるフランシスコ教皇が、2022年までの9年間で53カ国を歴訪したアーカイブ映像を編集したドキュメンタリー映画がある。訪問先での教皇の言葉の記録だが、中には教皇の言葉に激しい反発が起こり抗議活動に発展した事例もある。事実が変えられない以上、誠意ある態度が解決への一番の近道であることを感じさせる。人が家をつくるとき、聖書が示すような希望と確認に満ちた誇りをもって「神の家」だけを作り出すことはできない。「争いのない平和な世界」だけを作り出すことはできない。

 

「人は家をつくるが神は人をつくる」。人は国家をつくり文化を生み出し、平和を作り出すこともできる。一方で人は敵を作り出すこともある。しかしその全ての先立って「神が人をつくる」ということを忘れないでいたい。そして私たちにとって最も大切なことは今日も現在進行形で「神は人を新しく生まれ変わらせる力を持っている」ということである。そして「神が人を新しく作り変える」ためにキリストが世に来られたのである。

 

ヘブライ人への手紙には「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい」(ヘブライ3:1)という言葉が記される。「使者」という言葉がキリストに対して使われるのはこの箇所だけである。「使者」とは「神の御心を伝える使いの者」であり、一方「大祭司」とは人間の思いや苦しみ、背負いきれない労苦と課題を「神に対して取り継ぐ者」である。十字架を背負って背負いきれない労苦と課題を「神に対して取り継ぐ者」がいることを聖書は告げている。「人は家をつくるが神はキリストを通して人をつくる」のである。