あの星をめあてに

芹野 創 牧師

その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う」(イザヤ書11章10節)

 

「その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う」(イザヤ11:10)。この言葉はキリストの誕生を願う人々の姿と重なるようだ。「すべての民の旗印」はマタイ福音書では「星」として描かれる(マタイ2:1以下)。

 光原百合子さんの詩に「旅の初めに」という詩がある。「山道はわかりにくいから/遠くに見えるあの木を/目印に行くといい/迷いそうになったら見上げてごらん/あの木をめざしていけば/いつか必ず着けるから/目印は遥かなものがいい/高いものがいい/遠い道を行くときには」。この詩で描かれる「遠くに見えるあの木」はどこかキリストの十字架を連想させるものがある。東方の博士たちが目当てにしたのは星であったが、それは「すべての民の旗印」の一つの姿である。私たちはこの「すべての民の旗印」の姿の中にキリストの十字架を重ね見ることもできるだろう。東方の学者たちとは、キリストの十字架を旗印として人生の旅路を歩む私たち自身の姿なのかもしれない。

 

 作家、須賀敦子さんのエッセイ『ユルスナールの靴』のプロローグは次のように始まる。「きっちり足に合った靴さえあれば、じぶんはどこまでも歩いていけるはずだ。そう心のどこかで思いつづけ、完璧な靴に出会わなかった不幸をかこちながら、私はこれまで生きてきたような気がする。行きたいところ、行くべきところぜんぶにじぶんが行っていないのは、あるいは行くのをあきらめたのは、すべて、じぶんの足にぴったりな靴をもたなかったせいなのだ、と」。人は自分の人生を切り開く「自分の靴」を持つべきである。

 

 「他人の靴を履いて他人の物差しで生きている」ということは少なくない。しかしどこかで「他人の靴」を履いて「自分の人生」を歩くことに疲れなければならない。人は「自分の靴」を履いて人生を導く「目印」を見出すのである。「疲れた者、重荷を背負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ12:28-30)。私たちは安らぎを約束する「すべての民の旗印」を探すのである。

 

 私たちは自分自身の安らぎを得るために、他人の心の平安を祈り願う者でありたい。「すべての民の旗印」は最後に「キリストの十字架」という形になった。この十字架が全ての争いを超えて皆が一つとなる約束(ガラテヤ3:26-28)の「旗印」であることを覚えたい。