滴る神の恵みを受けて

芹野 創 牧師

 

わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た(ヨハネ福音書1章31節)

 

キリストの洗礼という出来事が私たちに示している大きなテーマは、洗礼者ヨハネが繰り返し「わたしはこの方を知らなかった」(ヨハネ1:31)と語っていることである。私たちは自らの人生のただ中に「私たちの知らない方」が立っていてくださるということにもっと希望を持たなければならない。

 

 この「私たちの知らない方」がイエス・キリストであるという信仰的な事実は、辛い経験や苦しい経験の最中での「疑う余地のない当たり前の事実」では決してない。私たちはキリストの十字架や復活の信仰的な意味を知っているから、どんな苦難をも耐え忍ぶのではない。確かに私たちの信仰はどんな苦難をも耐え忍ぶ人生の「砦」、「隠れ家」、「苦難の避けどころ」である。しかしそれが信仰の全てを説明するものではない。イザヤ書では、揺れ動く信仰の姿として「傷ついた葦」、「暗くなっていく灯心」(イザヤ42:3)があることを記している。それが私たち人間の現実である。

 

 『子育て世代のパーソナルネットワーク 孤立・競争・共生』という本がある。この本は、子育てに関わる意識や態度、価値観に対して、周囲の人間関係がどのように関連しているのかを社会調査のデータを用いて解明し、より望ましい子育て環境を考えるための「ヒント」を提供するものである。この社会や私たちの生活が「どうなっているのか」という現在進行形の事柄に関して、データを用いて解明することは有益かもしれない。しかし「これからどうなっていくのか」という事柄に関しては「ヒントである」ということが大事である。人間は過去のデータ収集と解析によって生きるのではない。私たち人間にはある程度予測できるシミュレーションではなく「未知数に期待する力」、「未来を思う力」がある。

 

 詩篇は神の恵みが尽きることなく滴るものであることを語る。「あなたの家に滴る恵みに潤い、あなたの甘美な流れに渇きを癒す」(詩篇36:9)。私たちはこれから滴り落ちる「まだ私たちの知らない神の恵み」を希望を持って受け止めたい。私たちには苦難の中でも「未知数に期待する力」、「未来を思う力」がある。「わたしはこの方を知らなかった」(ヨハネ1:31)。キリストを通して私たちに与えられる神の恵みは、これからも滴り落ちる未知数である。私たちの苦しみを背負うキリストの十字架は一度だけの出来事であったが、その十字架の恵みは人生の中で繰り返し訪れるのである。