神の栄光を求めて

芹野 創 牧師

イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された(ヨハネによる福音書2章11節)

 

 ヨハネ福音書で語られる「最初のしるし」とは水がぶどう酒に変わるという奇跡そのものだけを指しているのではない。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された」(ヨハネ2:11)。それは私たちが神の栄光を体験する出来事である。

 出エジプト記では出エジプトを導いたモーセが、神が共に歩んでくださるという確信を得るために神の栄光を求めた姿が語られる。しかしそこで示されたことは、人は神の栄光を目の当たりにすることはできないということだった(出エジプト33:12以下)。私たちは神が共に歩んでくださることを忘れてしまう。そして恐れや不安、悲しみの中に「神の栄光」として「神が共に歩んでくださる」という「しるし」があることを直視することができない。それは十字架を前にしてキリストを見捨てて逃げ出した弟子たちの姿でもある。だからこそ、私たちが神の栄光を求め、神が共に歩んでくださるという信仰的で個人的な体験を伴う「しるし」は一度だけでは足りないのである。

 

 哲学者ホワイトヘッドの「あまり多くのことを教えることなかれ。しかし、教えるべきことは徹底して教えるべし」という言葉がある。キリスト教保育連盟関東部会西地区の研修会で「こどもの傷つきとレジリエンス」と題した講演が行われた。「レジリエンス」とは「跳ね返り、弾力、反発」などの意味を持つ物理学用語であるが、近年、心理学の分野に転用された言葉なのだという。「レジリエンス」を心理学的に定義すると「心理的な傷つきや落ち込みから立ち直る回復力や弾力性、あるいはその心的過程や結果」であり、それは普遍的に誰もが持っているというのだという。興味深かったのは「言葉もレジリエンス」、つまり「言葉も心理的な傷つきや落ち込みから立ち直る力の一助になる」という話である。当たり前のように思えるが、しかしそれは様々な言葉にさらされて生きる時代において、「言葉」の厳選が不可欠であるということをもう一度思い出させてくれるものである。

 

 ヨハネの手紙一は「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。この命は現れました」(ヨハネ手紙一1:1)と記す。神の栄光を求め、神が共に歩んでくださるという「しるし」を私たちは「命の言」の中に見出すのである。そして最も究極的な「しるし」がキリストの十字架と復活である。これこそ私たちが徹底して心に留めるべきことである。