主よ、信じます

芹野 創 牧師

 

わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる(ヨハネによる福音書9章39節)

 

キリストは一つのことだけを問いかけられる。「あなたは人の子を信じるか」(ヨハネ9:35)。私たちの人生に寄り添い嬉しい時には喜びを与え、悲しく痛む時には慰めと癒しを与えてくださるキリストがすぐそばにいても私たちはそのことに気が付かない。目が開かれたこの人に残されていることは「主よ、信じます」という信仰の言葉である。

 私たちもこの信仰の言葉が必要である。しかし私たちがイエスを救い主キリストとして受け入れるということは、キリストが私たちの抱える傲慢さや、自己本位のあまり他者の思いを汲みきれない盲目さ、そしてキリストが共に歩んでくださることに気づかない盲目さに対して、裁きをもたらす主であることを受け入れることでもある(ヨハネ9:39)。

 

 人間の傲慢さや盲目さが一番表出するのは危機の時なのだろう。映画『ノートルダム 炎の大聖堂』はセットによる火災の再現と実写を融合させたドラマ仕立ての作品である。何よりも興味深いのは、通報した市民が添付した火災の写真を消防署が「合成写真」と判断したことである。フェイクニュースが広がる中で、映像や写真での真意を判断することは難しい。ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンの言葉に「しかし、危険のあるところ、救うものもまた育つ」という言葉がある。歴史を学び時代の危機を知る人は、人間の傲慢さを知る人である。また人生の危機を乗り切る人は、自分自身の傲慢さをよく知る人である。私たちは時代の危機に怯え、人生の危機に絶望し人間の傲慢さや盲目さを嘆くだけでなく、神の「救いの力」を信じて祈る者でありたい。

 

 列王記下に預言者エリシャの物語がある。エリシャがアラム軍という敵の大群に包囲されたときの出来事が描かれている(列王記下6:15-17)。危機的な状況の中でエリシャは「目を開いて見えるようにしてください」(列王下6:17)と祈った。この時人間の目に明らかにされるのは「救いの力」の力強さである。

 

 「主よ、信じます」という信仰の言葉が必要である。それは人間の傲慢さが生み出す「悪」や他者の思いを汲みきれない盲目さが広げていく「闇の世界」を打ち破る神の「救いの力」の力強さを告白する言葉だからである。「主よ、信じます」という言葉の中心にキリストの十字架がある。キリストは私たちの傲慢さや盲目さを見つめ、裁きをもたらす主である。しかし私たちが受けるべきその裁きをキリストは自らの十字架として背負われたのだ。