賛美の衣をまとう

芹野 創 牧師

主なる神の霊がわたしをとらえた。...暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。(イザヤ書61章1節〜3節)

 

復活のキリストは私たちの日常生活の中に伴って共に歩もうとされる。ヨハネ福音書は「漁師」という弟子たちの日常生活の中にも復活のキリストが現れたことを告げる(ヨハネ21:3)。悲しみの時に寄り添い、疑いの時に諭し、何気ない日常の中に伴うキリストの姿はマタイ福音書の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という言葉に見事に集約されていると言える。

 いつもキリストが共にいてくださる福音の出来事を、旧約聖書の預言者は「暗い心に代えて賛美の衣をまとう」(イザヤ61:3)ことだと告げている。暗い心を包み込む福音のメッセージはいつも問いかけの中から始まる(ヨハネ20:15,20:29,21:5参照)。しかし私たちはキリストの問いかけに戸惑い、驚き、圧倒され上手く言葉を返すことができない。ペトロの手紙は次のよう呼びかけている。「あなたがたは、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」。しかし私たちは「神の言葉によって新しく生まれること」や、「暗い心に代えて賛美の衣をまとうこと」を願いながらも、そのように生きることの難しさを感じているのではないだろうか。

 

 イギリスに昔から伝わる衣類の修繕方法で「ダーニング(darning)」という修繕方法がある。通常は穴が空いたりシミができたり擦り切れたところは、できるだけその箇所を目立たせないで修繕する方法を考えるが、「ダーニング」はそれとは正反対である。逆に問題の箇所が服のポイントになるような色の糸を使い、「あえて見せる」という修繕方法である。ダーニングは自分だけの服の歴史を新しく折り込む手仕事である。

 

 「あえて見せる」という衣服のダーニングのように、人は「心のダーニング」を必要とする。「心のダーニング」もまた心に空いた穴を何事もなかったかのように埋め合わせ、暗い心の穴を隠すことが目的ではない。暗い心の穴にキリストの十字架と復活があてがわれ、そこにキリストの十字架と復活がはっきりと織り込まれていくのである。

 

 預言者が告げた福音の通り、私たちは「暗い心に代えて賛美の衣をまとう」(イザヤ61:3)のである。その衣は嘆きや疑い、欠乏、孤独、不安、虚しさに支配された私たちの暗い心を、何事もなかったかのように何かで埋め合わせ、取り繕うための衣ではない。その衣は私たちの暗い心をキリストの十字架と復活によってダーニングした「賛美の衣」である。